あなたと
巡り合ってほしい
歴史と場所
こい旅横浜
koitabi yokohama
山下町には、歴史がある。
異国文化の入り口となっていた山下町。
あなたを迎え入れるのは、懐かしい歴史と交流の跡。
大事な誰かと山下町を歩きながら、
肌で歴史を感じるひと時を。
街に恋して、あなたに恋して
歴史に出会う、濃い旅を。
こい旅横浜と
素敵な山下町巡りをしちゃおう!
さあ、巡っちゃおう。
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歩き回ってお店探し
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遺跡の展示をすぐそばに
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遺跡展示、見つけてみて
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広々明るい、通り道
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MISSION 山下町を巡る目的を
不死鳥を見つけてみよう
ここに行くと、周りには不死鳥の姿をモチーフにしたものがたくさん。
さらに、名前にフェニックスと付いている空間が見つかるかも…!?
他の不死鳥のモチーフが見つけられたなら、このモチーフと一緒にSNSに投稿しちゃいましょう!
NEXT MISSION → 2024 SUMMER
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見かけたことはありますか?
山下町に潜む小さなヒミツ。
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山下町の歴史・
異国の面影
江戸時代、現在の山下町は、横浜村という半農半漁の村でした。幕末に横浜が開港されると、来日する諸外国の外交官や商人たちが暮らす「外国人居留地(山下居留地遺跡)」がこの場所に設けられました。現在の日本大通りをはさんで、外国人居留地と日本人街が広がり、この一帯を開港場と呼びました。開港場の中央には波止場(後の大さん橋)が築かれました。1899年(明治32)に外国人居留地制度が廃止されて山下町となりますが、諸外国の人びとが暮らす、コスモポリタンの風情が漂う街でした。
1923年9月1日の関東大震災で、山下町は壊滅的な被害をうけ、居留地時代の景観が失われました。震災後に瓦礫を埋め立て、臨海公園として山下公園が誕生し、人びとの憩いの場所となりました。しかし、戦争の時代となり、1945年5月29日の横浜大空襲で、山下町の半分あまりが再び焦土と化しました。
戦後は米国をはじめとする進駐軍によって山下町の一部と山下公園が接収され、進駐軍の施設や住宅が立ち並びました。1952年に占領の時代が終わると、山下町は再び活気を取り戻します。1970年代に飛行機の時代が到来するまで、山下町と大さん橋は、海外からの人・もの・情報が行き来する日本の玄関でした。この幕末以来の波乱の歴史ゆえ、山下町界隈には今でも異国の面影が漂い、多くの人びとを魅了しているのです。
横浜開港資料館は、横浜開港100年を記念して編纂された「横浜市史」の収集資料を基礎として、昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に開館しました。
当館は、安政元年(1854)に江戸幕府とアメリカのペリー提督が日米和親条約を締結した由緒ある場所に建っています。中庭にある「たまくすの木」は、ペリー来航当時からこの地で横浜の歴史を見続けてきた生き証人であり、横浜市の地域史跡に指定されています。また当館の旧館は昭和6年(1931)に建てられたイギリス総領事館(横浜市指定文化財)の建物を活用しています。
日米和親条約に続いて、安政5年(1858)に欧米5ヶ国とのあいだで修好通商条約が締結されると、安政6年(1859)6月、横浜(神奈川)が外国貿易のために開港しました。新しく整備された街には国内外から多くの人びとが移り住み、横浜は日本を代表する国際貿易都市として発展していきます。
横浜開港資料館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、これまで40年にわたって、幕末から昭和初期にかけての横浜に関する歴史資料を収集・保存し、閲覧に供するとともに、調査研究の成果を展示・出版などのかたちで公開してきました。当館は、資料を通じて横浜のあゆみを次の世代に伝える「近代横浜の記憶装置」としての役割を担っています。
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に1981年に開館しました。資料館が建っているのは、1854年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所の近くで、中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。資料館は、1859年の開港以来の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、横浜の歴史に関する資料を収集して展示するとともに、閲覧室を設けて市民や研究者に資料を公開する活動を行っています。旧館は1931年に建てられた当時の旧イギリス総領事館で、経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されています。資料館に隣接する開港広場公園は、1982年に開園した公園です。園内には「日米和親条約締結の地」碑のほか、1885年頃に設置されたと考えられる煉瓦造りのマンホールと下水道の遺構や、山下町90番地にあったスイスの商会、シイベル・ブレンワルド商会が扱っていた大砲など、開港期の横浜に関係する資料が野外展示されています。また、本公園横の横浜海岸教会は、1872年に創立された日本最初のプロテスタント教会です。初代の教会堂は関東大震災で倒壊しましたが、1933年に現在の会堂が再建されました。教会堂上の鐘(チャーチベル)は1875年にアメリカの諸教会から寄贈されたものです。
横浜は日本における近代消防の発祥の地です。1859年7月1日(安政6年6月2日)の横浜開港以降、居留地に住む外国人たちは自らの生命と財産を保護するため、「居留地消防隊」を組織していきました。明治初期には、現在の横浜都市発展記念館・横浜ユーラシア文化館隣接地の山下町238番地に拠点をおき、高性能の蒸気ポンプを運用して消火活動にあたっていました。また、日本人の消防組織もあり、外国人と協同で災害の発生に備えました。1899年(明治32年)、居留地が撤廃されると、居留地消防隊は「薩摩町消防組」と改称し、加賀町警察署の指揮下におかれます。さらに1919年(大正8年)、常備消防制度の導入が決まると、薩摩町消防組は神奈川県の第二消防署(現在の横浜市中消防署)となりました。
横浜市中区の日本大通り付近には、「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」があります。これは、1893年(明治26年)に建造されたと推定される煉瓦造の地下水槽で、居留地消防隊の防火用の貯水槽として使われました。
桜木町駅から元町方面に伸びる約2.5kmの大通りが本町通りです。銀行、官公庁、商店などが集まり、横浜の商業・行政の中枢として発展しました。日本大通りと交差する地点から、横浜外国人居留地となり、外国系の貿易商、銀行、商店などが立ちならぶ、メインストリートでした。また、1862年には横浜で最初に建設されたキリスト教会堂である横浜天主堂も開かれました。関東大震災や太平洋戦争で被災しましたが、そのたびに復興を遂げています。
本町通りは横浜の近代化とともに歩んできた通りであり、今もなお横浜の中心部を貫く幹線道路として機能しています。
幕末の横浜開港によって外国人が生活するエリア、外国人居留地が開かれ、山下居留地遺跡と呼ばれました。その後、山手にも居留地が開かれました。山下居留地遺跡には外国系の貿易商、銀行、ホテル、各種商店が建ち並び、まるで異国のような街並みでした。1899年の居留地制度廃止により、山下町となりました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し居留地時代の景観は失われました。その後、復興されましたが、第二次世界大戦によって外国人の数は激減し、戦後は進駐軍による接収も受けました。現在、山下居留地遺跡の遺跡として、煉瓦や切石の基礎遺構や地下貯水槽などが残っているほか、当時の遺物が出土しています。
日本の道100選に選ばれた山下公園通りは、かつて「BUND(バンド)-海岸通り」と呼ばれ、外国系の商館やホテルなどが立ち並ぶ、海沿いのプロムナードでした。1923年の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊しました。その後、海岸通りの地先が震災瓦礫の投棄場所に指定され、その上に山下公園が整備されました。
通りには、横浜港のシンボルであるマリンタワーや、ホテルニューグランドなどの歴史的建造物の数々にくわえ、シルクセンターや産業貿易センター、県民ホールなどの商業・文化施設も位置するほか、通りの西端には開港広場があり、横浜開港の歴史を伝える開港の碑や下水道遺構などの開港記念塔があります。山下公園には「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から寄贈されたインド水塔など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑があります。通りの両側に植えられたイチョウの木が季節に応じて美しい景色を作り出します。
ホテルニューグランドは、1927年に開業した横浜で最も歴史のあるホテルです。開港以来、横浜には多くの外国人向けホテルが建設されましたが、1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けました。横浜の復興にとってホテルの建設は喫緊の課題であり、官民一体となって新ホテルの建設が進められます。建築家・渡辺仁の設計で建設された新ホテルの名称は一般から公募され、震災前の横浜のホテルを代表する「グランドホテル」の名称を引き継ぐ、「ホテルニューグランド」と名付けられました。東洋一と謳われたこのホテルは、ヨーロピアンテイストをコンセプトに、横浜港に面した美しい外観と、細部に東洋的な手法を取り入れた内装を備えています。特に、2階にあるロビーは、ホテルの中心的存在で、昭和初期の色彩豊かなタイルや、当時より使われている横浜家具などがレトロな雰囲気を醸し出しています。開業以来宿泊してきた国内外の著名人やVIPの中でも最も有名なのは、マッカーサー元帥です。第二次世界大戦後、マッカーサー元帥が専用室として使用した315号室は「マッカーサーズスイート」と呼ばれ、現在も宿泊することができます。
マリンタワーは、横浜のシンボルとして、1961年(昭和36年)に横浜開港100周年記念事業の一環として建設されたタワーです。高さは106メートルで、当時は日本で最も高い灯台としても機能していました。塔体の側面の十角形の構成が特徴的で、その色は開港130周年となる1989年(平成元年)に下から上へ白から赤く変化するグラデーションになり、開港150周年の2009年(平成21年)には外側がシルバー、内側がブラウンオリーブに塗り替えられるという変遷を経ています。2019年からのリニューアル工事では再塗装とライトアップデザインの一新、設備更新などが行われました。
29階・30階の展望フロアからは横浜港、みなとみらい地区、横浜ベイブリッジなど、横浜の景色を一望することができ、人気を集めています。夜間は10時まで営業しているため、夜景も存分に楽しめるほか、30階のメディアアートギャラリーでは夜景とともに映像作品を鑑賞することができます。
山下公園は1923年(大正12年)の関東大震災で発生した瓦礫を埋め立てて造成された公園で、1930年(昭和5年)に開園しました。市内の復興事業として、当初は海岸遊歩道として構想されましたが、その後も変遷を繰り返してきました。
1935年(昭和10年)には復興記念横浜大博覧会の会場となり多くの人で賑わいました。第二次世界大戦末期には日本海軍が利用し、船艇や軍事資材が置かれました。戦後は米軍に接収され、1959年(昭和34年)に全面返還されました。その後再整備を経て、1961年(昭和36年)には氷川丸が岸壁に係留され、公園のシンボルとなりました。1988年(昭和63年)の横浜博覧会の際には東側一帯が再整備され、駐車場や「世界の広場」などが完成。2002年(平成14年)には、新港地区から公園を直結する山下臨港線プロムナードが整備されました。公園内の数々の記念碑や建造物がこうした歴史を教えてくれます。
横浜の大さん橋は横浜港の中心にある国際客船ターミナルですが、1894年(明治27年)の完成以来、何度もその姿を変えてきました。当初は長さ約19メートル、高さ457メートルの鉄桟橋で、「メリケン波止場」とも呼ばれました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災で桟橋部が陥没し、上屋が焼失しましたが、1925年に復旧工事が完了しました。戦後は進駐軍に接収され、サウスピアと呼称されました。1952年の接収解除後は多くの客船が就航し、明治期以来の賑わいを見せました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際客船ターミナルとしての機能が強化されました。現在の大さん橋ターミナルは2002年に完成したもので、横浜港の玄関口として国際クルーズ船が多数寄港します。大さん橋屋上のスペースは「くじらのせなか」と名づけられ、客船の入出港時は多くの見物客を集めるほか、室内部分ではさまざまなイベントが開催されています。
「象の鼻」とは、横浜港の東側にある防波堤の先端部分のことを指します。
1859年の横浜港の開港に伴い、1858年に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場を弓なりに延長し、現在の象の鼻の原型となりました。横浜港の貿易量の増加に伴い大さん橋や新港ふ頭などが完成し、港としての主役を譲ることになりましたが、象の鼻地区は物揚げ場や船だまりとして利用され、東西上屋倉庫などがありました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。
象の鼻は、横浜港のシンボル的存在として、多くの外国船や外国人が訪れ、諸外国との貿易の中心地、文化交流の舞台としても発展しました。2009年(平成21年)には、当時の写真や工事記録などを参考にし、波止場を明治中期の姿に復旧して「象の鼻パーク」として整備しました。工事中に発見された、関東大震災で沈下したとみられる防波堤の石積みの一部が復旧に利用されています。
友達と行く
開港百年を記念した『横浜市史』を基礎に設立された横浜開港資料館には、山下町の昔の姿など歴史を感じられる資料がたくさん。友達と訪問するのなら、開港資料館を隅々まで探検し、昔の山下町の姿を目に焼き付けてみましょう。資料館の隣の開港広場は「日米和親条約締結の地」の記念碑や、明治時代から残るマンホール、大砲など、開港したころの横浜の空気が感じられる屋根のない博物館です。ここで“予習”をすれば、実際に街を巡り歩き「あ、ここ見た!」「ここって昔これだったんだよ」などといった話題が生まれるなど、いつもと違った発見を共有するという楽しみ方ができるかもしれません。
友達と行く
日本の消防隊は横浜から始まりました。明治時代、居留地に住む外国人が中心となり、自分たちの命と財産を守るために「居留地消防隊」が作られました。日本人の消防組織もあり、外国人と協力して災害の発生に備えました。当時の居留地は木造建築が多く、火災の危険が高かったため、居留地消防隊は重要な役割を果たしました。1899年(明治32年)に居留地がなくなると「薩摩町消防組」となり、警察署の指揮下に入ってから、1919年(大正8年)、神奈川県の第二消防署(現在の横浜市中消防署)になりました。
「居留地消防隊」の遺構として、横浜市中区の日本大通り沿いに「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」があります。煉瓦造りの貯水槽には現在でも水が溜まっており、その様子は気軽に見学することができます。横浜の街中に突如として現れる歴史の跡。友達同士でのぞき込んだら、何が見えるでしょうか?
友達と行く
桜木町駅から元町方面に伸びる約2.5kmの大通りが本町通りです。銀行、官公庁、商店などが集まり、横浜の商業・行政の中枢として発展しました。日本大通りと交差する地点から、横浜外国人居留地となり、外国系の貿易商、銀行、商店などが立ちならぶ、メインストリートでした。
また、1862年には横浜で最初に建設されたキリスト教会堂である横浜天主堂も開かれました。関東大震災や太平洋戦争で被災しましたが、そのたびに復興を遂げています。
飲食店やホテル、オフィスビルなど山下町の街の景色に自然と溶け込んでいる歴史ある建造物や遺物の数々。歩いていればちらりと顔を出す光景。それらに歴史を感じながら歩けば、友達同士の散歩もより一層楽しくなるでしょう。
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幕末の横浜開港によって外国人が生活するエリア、外国人居留地が開かれ、山下居留地遺跡と呼ばれました。その後、山手にも居留地が開かれました。山下居留地遺跡には外国系の貿易商、銀行、ホテル、いろいろな商店が建ち並び、まるで異国のような街並みでした。1899年に居留地制度が廃止されると山下町になりました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し居留地時代の景観は失われました。その後、復興されましたが、第二次世界大戦によって外国人の数は激減し、戦後は進駐軍による接収も受けました。
現在、山下居留地遺跡の遺跡として、煉瓦や切石の基礎や地下貯水槽などが残っているほか、身の回りの道具や建物の内装などが出土しています。いまもそのころの文物が眠っているかもしれません。友達同士で思いも寄らぬ「宝探し」をするのはいかがでしょう。
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日本の道100選に選ばれた山下公園通りは、かつて「BUND(バンド)-海岸通り」と呼ばれ、外国系の商館やホテルなどが立ち並ぶ、海沿いのプロムナードでした。しかし、1923年の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊しました。その後、海岸通りの地先が震災瓦礫の投棄場所に指定され、その上に整備して、山下公園が整備されました。
通りには、横浜港のシンボルであるマリンタワーや、ホテルニューグランドなどの歴史的建造物の数々にくわえ、シルクセンターや産業貿易センター、県民ホールなどの商業・文化施設も。通りの西端には開港広場があり、横浜開港の歴史を伝える開港の碑や下水道遺構などの開港記念塔があります。山下公園には「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から寄贈されたインド水塔など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑があります。通りの両側に植えられたイチョウの木が季節に応じて美しい景色を作り出します。
自然の景色と数々のランドマークを一度に楽しめる山下公園通りを歩けば、友達とのおしゃべりも自然と弾みます。
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ホテルニューグランドは、1927年に開業した横浜で最も歴史のあるホテルです。開港以来、横浜には多くの外国人向けホテルが建設されましたが、1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けました。横浜の復興にとってホテルの建設は真っ先に取り組むべき課題であり、市と市民が協力して進められました。建築家・渡辺仁の設計で建設された新ホテルの名前は公募され、震災前の横浜のホテルを代表する「グランドホテル」の名称を引き継ぐ、「ホテルニューグランド」と名付けられました。
東洋一との評判を集めたこのホテルは、ヨーロピアンテイストをコンセプトに、横浜港に面した美しい外観と、細部に東洋的な手法を取り入れた内装を備えています。特に、2階にあるロビーは、ホテルの中心となる存在で、昭和初期の色彩豊かなタイルや、当時より使われている横浜家具などがレトロな雰囲気を醸し出しています。
マッカーサーやベーブ・ルースなど、多くの著名人やVIPが宿泊したニューグランド。非日常の空間の中、歴史的な人物がどんな時間を過ごしたか、想像を巡らせるのはいかがでしょうか。
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マリンタワーは、横浜のシンボルとして、1961年(昭和36年)に横浜開港100周年記念事業の一環として建設されたタワーです。高さは106メートルで、当時は日本で最も高い灯台としても使われていました。塔体の側面の十角形が特徴的で、その色は開港130周年となる1989年(平成元年)に下から上へ白から赤く変化するグラデーションになったり、開港150周年の2009年(平成21年)には外側がシルバー、内側がブラウンオリーブに塗り替えられたりと、その姿を変えてきました。2019年からは塗装のし直しとライトアップデザインの一新、設備の更新などのリニューアルが行われ、また新しい顔を見せています。
29階・30階の展望フロアからは横浜港、みなとみらい地区、横浜ベイブリッジなど、横浜の景色を一度に眺めることができ、人気を集めています。最近注目が高まる本牧ふ頭の工場夜景も楽しめます。お気に入りの景色を探してください。
友達と行く
山下公園は1923年(大正12年)の関東大震災で発生した瓦礫を埋め立てて造られた公園で、1930年(昭和5年)に開園しました。市内の復興事業として、当初は海岸遊歩道として計画されましたが、その後も移り変わりを繰り返してきました。
1935年(昭和10年)には復興記念横浜大博覧会の会場となり多くの人で賑わいました。第二次世界大戦末期には日本海軍が利用し、船艇や軍事資材が置かれました。戦後は米軍に接収され、1959年(昭和34年)に全面返還されました。その後再整備を経て、1961年(昭和36年)には氷川丸が岸壁に係留され、公園のシンボルとなりました。1988年(昭和63年)の横浜博覧会に合わせて東側一帯が改めて整備され、駐車場や「世界の広場」などが完成。2002年(平成14年)には、新港地区から公園を直結する山下臨港線プロムナードが開通しました。友達同士で歴史を伝える記念碑を探してみましょう。
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横浜の大さん橋は横浜港の中心にある国際客船ターミナルですが、1894年(明治27年)の完成以来、何度もその姿を変えてきました。当初は長さ約19メートル、高さ457メートルの鉄桟橋で、「メリケン波止場」とも呼ばれました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災で桟橋部が陥没し、上屋が失われましたが、1925年に復旧工事が完了しました。戦後は進駐軍に接収され、「サウスピア」という名前に。1952年の接収解除後は多くの客船が就航し、明治時代を取り戻すかのように大いに賑わいました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際客船ターミナルとしての機能が強化されました。
現在の大さん橋ターミナルは2002年に完成したもので、横浜港の玄関口として国際クルーズ船が多数寄港します。大さん橋屋上のスペースは「くじらのせなか」と名づけられ、客船の入出港時を眺められるベストスポット。ぜひ友達同士で旅人に手を振ってみましょう。
友達と行く
「象の鼻」とは、横浜港の東側にある防波堤の先端部分のことです。
1859年の横浜港の開港に合わせて、1858年に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場を弓なりに延長し、現在の象の鼻の原型となりました。横浜港の貿易量が増えると、大さん橋や新港ふ頭などが完成し、港としての主役をそちらに譲ることになりましたが、象の鼻地区は物揚げ場や船だまりとして利用され、東西上屋倉庫などがありました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。
開港150周年の2009年(平成21年)には、当時の写真や工事記録などを参考にし、波止場を明治中期の姿に復旧して「象の鼻パーク」として整備されました。「象の鼻テラス」ではジャンルを問わないアート体験も。カフェで休憩しながら、お気に入りの作品やアーティストが見つかるかもしれません。
家族と行く
開港百年を記念した『横浜市史』を基礎に設立された横浜開港資料館には、山下町の昔の姿など歴史を感じられる資料がたくさんあります。複数のフロアに渡って展示されている展示物の数は圧巻です。展示室に入って最初に現れる大きな地球儀や、街の地図を描いた床面は子供心を大きく揺さぶることでしょう。また地下の閲覧資料室では昔発刊された新聞や横浜古地図の複製などを閲覧することができます。
資料館の隣の開港広場は「日米和親条約締結の地」の記念碑や、明治時代から残るマンホール、大砲など、開港したころの横浜の空気が感じられる屋根のない博物館です。
親子で横浜の歴史を感じる時間を過ごしてみてはどうでしょうか。
家族と行く
日本の消防隊は横浜から始まりました。明治時代、居留地に住む外国人が中心となり、自分たちの命と財産を守るために「居留地消防隊」が作られました。日本人の消防組織もあり、外国人と協力して災害の発生に備えました。当時の居留地は木造建築が多く、火災の危険が高かったため、居留地消防隊は重要な役割を果たしました。1899年(明治32)年に居留地がなくなると「薩摩町消防組」となり、警察署の指揮下に入ってから、1919年(大正8年)、神奈川県の第二消防署(現在の横浜市中消防署)になりました。
「居留地消防隊」の遺構として、横浜市中区の日本大通り沿いに「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」があります。日本初の消防車もこの水を利用したそうです。真っ赤な消防車や、シルバーの防火服に身を包んだ消防士さんも、ここからスタートしました。お子さんと一緒に、家族で現在の消防署と比べてみるのもおもしろいですね。
家族と行く
桜木町駅から元町方面に伸びる約2.5kmの大通りが本町通りです。銀行、官公庁、商店などが集まり、横浜の商業・行政の中枢として発展しました。日本大通りと交差する地点から、横浜外国人居留地となり、外国系の貿易商、銀行、商店などが立ちならぶ、メインストリートでした。
また、1862年には横浜で最初に建設されたキリスト教会堂である横浜天主堂も開かれました。関東大震災や太平洋戦争で被災しましたが、そのたびに復興を遂げています。
家族で本町通りを歩きながら、昔からある建造物がどれなのか当てっこしてみてはいかがでしょうか。見事な調和と溶け込み具合に、時にはうなってしまうかも。気になった建物の前で立ち止まり、その歴史を調べてみれば思わぬ発見があるかもしれません。
家族と行く
幕末の横浜開港によって外国人が生活するエリア、外国人居留地が開かれ、山下居留地遺跡と呼ばれました。その後、山手にも居留地が開かれました。山下居留地遺跡には外国系の貿易商、銀行、ホテル、いろいろな商店が建ち並び、まるで異国のような街並みでした。1899年に居留地制度が廃止されると山下町になりました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し居留地時代の景観は失われました。その後、復興されましたが、第二次世界大戦によって外国人の数は激減し、戦後は進駐軍による接収も受けました。
現在、山下居留地遺跡の遺跡として、煉瓦や切石の基礎や地下貯水槽などが残っているほか、身の回りの道具や建物の内装などが出土しています。何気なく歩いている道のすぐ下には、思いもよらぬお宝が眠っているかも?明治・大正時代の暮らしに思いをはせ、家族で探検してみましょう。
家族と行く
日本の道100選に選ばれた山下公園通りは、かつて「BUND(バンド)-海岸通り」と呼ばれ、外国系の商館やホテルなどが立ち並ぶ、海沿いのプロムナードでした。しかし、1923年の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊しました。その後、海岸通りの地先が震災瓦礫の投棄場所に指定され、その上に整備して、山下公園が整備されました。
通りには、横浜港のシンボルであるマリンタワーや、ホテルニューグランドなどの歴史的建造物の数々にくわえ、シルクセンターや産業貿易センター、県民ホールなどの商業・文化施設も。通りの西端には開港広場があり、横浜開港の歴史を伝える開港の碑や下水道遺構などの開港記念塔があります。山下公園には「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から寄贈されたインド水塔など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑があります。
通りのそばにある施設に寄り道しながら、みんなで手を繋いで散歩してみたり。横浜港を行き交っているのはどんな船か、家族で話し合いながら歩くのも楽しみの一つです。
家族と行く
ホテルニューグランドは、1927年に開業した横浜で最も歴史のあるホテルです。開港以来、横浜には多くの外国人向けホテルが建設されましたが、1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けました。横浜の復興にとってホテルの建設は真っ先に取り組むべき課題であり、市と市民が協力して進められました。建築家・渡辺仁の設計で建設された新ホテルの名前は公募され、震災前の横浜のホテルを代表する「グランドホテル」の名称を引き継ぐ、「ホテルニューグランド」と名付けられました。
東洋一との評判を集めたこのホテルは、ヨーロピアンテイストをコンセプトに、横浜港に面した美しい外観と、細部に東洋的な手法を取り入れた内装を備えています。特に、2階にあるロビーは、ホテルの中心となる存在で、昭和初期の色彩豊かなタイルや、当時より使われている横浜家具などがレトロな雰囲気を醸し出しています。
非日常の空間を楽しんだあとは、ぜひお食事を。ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど、現代では子どもに人気の料理の多くがこのレストランから生まれています。
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マリンタワーは、横浜のシンボルとして、1961年(昭和36年)に横浜開港100周年記念事業の一環として建設されたタワーです。高さは106メートルで、当時は日本で最も高い灯台としても使われていました。塔体の側面の十角形が特徴的で、その色は開港130周年となる1989年(平成元年)に下から上へ白から赤く変化するグラデーションになったり、開港150周年の2009年(平成21年)には外側がシルバー、内側がブラウンオリーブに塗り替えられたりと、その姿を変えてきました。2019年からは塗装のし直しとライトアップデザインの一新、設備の更新などのリニューアルが行われ、また新しい顔を見せています。
29階・30階の展望フロアからは横浜港、みなとみらい地区、横浜ベイブリッジなど、横浜の景色を一目で眺めることができ、人気を集めています。景色とともに映像作品を鑑賞することができる30階のメディアアートギャラリーは家族に特におすすめです。
家族と行く
山下公園は1923年(大正12年)の関東大震災で発生した瓦礫を埋め立てて造られた公園で、1930年(昭和5年)に開園しました。市内の復興事業として、当初は海岸遊歩道として計画されましたが、その後も移り変わりを繰り返してきました。
1935年(昭和10年)には復興記念横浜大博覧会の会場となり多くの人で賑わいました。第二次世界大戦末期には日本海軍が利用し、船艇や軍事資材が置かれました。戦後は米軍に接収され、1959年(昭和34年)に全面返還されました。その後再整備を経て、1961年(昭和36年)には氷川丸が岸壁に係留され、公園のシンボルとなりました。1988年(昭和63年)の横浜博覧会に合わせて東側一帯が改めて整備され、駐車場や「世界の広場」などが完成。2002年(平成14年)に整備された山下臨港線プロムナードは廃線跡を利用しています。どんな列車が走っていたか、家族で調べてみるのも楽しそうです。
家族と行く
横浜の大さん橋は横浜港の中心にある国際客船ターミナルですが、1894年(明治27年)の完成以来、何度もその姿を変えてきました。当初は長さ約19メートル、高さ457メートルの鉄桟橋で、「メリケン波止場」とも呼ばれました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災で桟橋部が陥没し、上屋が失われましたが、1925年に復旧工事が完了しました。戦後は進駐軍に接収され、「サウスピア」という名前に。1952年の接収解除後は多くの客船が就航し、明治時代を取り戻すかのように大いに賑わいました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際客船ターミナルとしての機能が強化されました。
現在の大さん橋ターミナルは2002年に完成したもので、横浜港の玄関口として国際クルーズ船が多数寄港します。大さん橋屋上「くじらのせなか」で客船を見ながら、船がどこから来てどこへ行くのか、どんな人が乗っているか、家族みんなで話し合ってみるのはいかがでしょうか。
家族と行く
「象の鼻」とは、横浜港の東側にある防波堤の先端部分のことです。
1859年の横浜港の開港に合わせて、1858年に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場を弓なりに延長し、現在の象の鼻の原型となりました。横浜港の貿易量が増えると、大さん橋や新港ふ頭などが完成し、港としての主役をそちらに譲ることになりましたが、象の鼻地区は物揚げ場や船だまりとして利用され、東西上屋倉庫などがありました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。
開港150周年の2009年(平成21年)には、当時の写真や工事記録などを参考にし、波止場を明治中期の姿に復旧して「象の鼻パーク」として整備されました。街歩きのひと休みは「象の鼻テラス」で。「ゾウノハナソフトクリーム」は家族連れにも人気です。甘いものでパワーチャージしちゃいましょう。
カップルで行く
開港百年を記念した『横浜市史』を基礎に設立された横浜開港資料館には、中華街の昔の姿など歴史を感じられる資料がたくさんあります。館内には昔の風景を楽しむ熟年の夫婦の姿を見ることも。資料館の静かな空間の中で、お互いの歩幅や興味の向く先に神経を研ぎ澄ませるという非日常的なデートを楽しめます。資料館の隣、開港広場の楽しみは噴水だけではありません。「日米和親条約締結の地」の記念碑や、明治時代から残るマンホールや大砲など、開港したころの横浜の空気が感じられる屋根のない博物館です。こんなことに興味があったんだ!と相手の新しい一面を知ることができるかも。
カップルで行く
日本の消防隊は横浜から始まりました。明治時代、居留地に住む外国人が中心となり、自分たちの命と財産を守るために「居留地消防隊」が作られました。日本人の消防組織もあり、外国人と協力して災害の発生に備えました。当時の居留地は木造建築が多く、火災の危険が高かったため、居留地消防隊は重要な役割を果たしました。1899年(明治32)年に居留地がなくなると「薩摩町消防組」となり、警察署の指揮下に入ってから、1919年(大正8年)、神奈川県の第二消防署(現在の横浜市中消防署)になりました。
「居留地消防隊」の遺構として、横浜市中区の日本大通り沿いに「旧居留地消防隊地下貯水槽遺構」があります。地下貯水槽には現在でも水が溜まっています。一見レトロなこの場所はデートコースの一角に位置しているので、山下町を歩いている時にふと通りかかっていることがあるかも。現在の安心な生活の出発点と言えるこの場所に、改めて訪れてみてもいいかもしれません。
カップルで行く
桜木町駅から元町方面に伸びる約2.5kmの大通りが本町通りです。銀行、官公庁、商店などが集まり、横浜の商業・行政の中枢として発展しました。日本大通りと交差する地点から、横浜外国人居留地となり、外国系の貿易商、銀行、商店などが立ちならぶ、メインストリートでした。
また、1862年には横浜で最初に建設されたキリスト教会堂である横浜天主堂も開かれました。関東大震災や太平洋戦争で被災しましたが、そのたびに復興を遂げています。
2人が歩く街の景色に溶け込む、趣のある歴史的建造物の数々。本町通りを歩けば、横浜の歴史、そして本町通りを歩いた人々の歴史に2人の思い出が重なっていきます。
カップルで行く
幕末の横浜開港によって外国人が生活するエリア、外国人居留地が開かれ、山下居留地遺跡と呼ばれました。その後、山手にも居留地が開かれました。山下居留地遺跡には外国系の貿易商、銀行、ホテル、いろいろな商店が建ち並び、まるで異国のような街並みでした。1899年に居留地制度が廃止されると山下町になりました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し居留地時代の景観は失われました。その後、復興されましたが、第二次世界大戦によって外国人の数は激減し、戦後は進駐軍による接収も受けました。
現在、山下居留地遺跡の遺跡として、煉瓦や切石の基礎や地下貯水槽などが残っているほか、身の回りの道具や建物の内装などが出土しています。もし二人がタイムスリップしたら、どんな景色が見られるでしょうか?
カップルで行く
日本の道100選に選ばれた山下公園通りは、かつて「BUND(バンド)-海岸通り」と呼ばれ、外国系の商館やホテルなどが立ち並ぶ、海沿いのプロムナードでした。しかし、1923年の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊しました。その後、海岸通りの地先が震災瓦礫の投棄場所に指定され、その上に整備して、山下公園が整備されました。
通りには、横浜港のシンボルであるマリンタワーや、ホテルニューグランドなどの歴史的建造物の数々にくわえ、シルクセンターや産業貿易センター、県民ホールなどの商業・文化施設も。通りの西端には開港広場があり、横浜開港の歴史を伝える開港の碑や下水道遺構などの開港記念塔があります。山下公園には「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から寄贈されたインド水塔など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑があります。
イチョウ並木や港が見える景色は“映え”間違いなし。美しい景色を横目に歩きながら、これからの2人のことについてゆっくりと話すのも素敵でしょう。2人の思い出をぜひここで残してください。
カップルで行く
ホテルニューグランドは、1927年に開業した横浜で最も歴史のあるホテルです。開港以来、横浜には多くの外国人向けホテルが建設されましたが、1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けました。横浜の復興にとってホテルの建設は真っ先に取り組むべき課題であり、市と市民が協力して進められました。建築家・渡辺仁の設計で建設された新ホテルの名前は公募され、震災前の横浜のホテルを代表する「グランドホテル」の名称を引き継ぐ、「ホテルニューグランド」と名付けられました。
東洋一との評判を集めたこのホテルは、ヨーロピアンテイストをコンセプトに、横浜港に面した美しい外観と、細部に東洋的な手法を取り入れた内装を備えています。特に、2階にあるロビーは、ホテルの中心となる存在で、昭和初期の色彩豊かなタイルや、当時より使われている横浜家具などがレトロな雰囲気を醸し出しています。
非日常の空間を楽しんだあとは、ぜひお食事を。ドリア、ナポリタンなど数々の料理が生まれたレストランで、二人の楽しい時間を過ごしましょう。
カップルで行く
マリンタワーは、横浜のシンボルとして、1961年(昭和36年)に横浜開港100周年記念事業の一環として建設されたタワーです。高さは106メートルで、当時は日本で最も高い灯台としても使われていました。塔体の側面の十角形が特徴的で、その色は開港130周年となる1989年(平成元年)に下から上へ白から赤く変化するグラデーションになったり、開港150周年の2009年(平成21年)には外側がシルバー、内側がブラウンオリーブに塗り替えられたりと、その姿を変えてきました。2019年からは塗装のし直しとライトアップデザインの一新、設備の更新などのリニューアルが行われ、また新しい顔を見せています。
二人の時間を楽しむのは夜がおすすめ。29階・30階の展望フロアは10時まで営業しているので、夜景をたっぷり眺めることができます。360度のパノラマから、二人だけのお気に入りの景色を見つけましょう。
カップルで行く
山下公園は1923年(大正12年)の関東大震災で発生した瓦礫を埋め立てて造られた公園で、1930年(昭和5年)に開園しました。市内の復興事業として、当初は海岸遊歩道として計画されましたが、その後も移り変わりを繰り返してきました。
1935年(昭和10年)には復興記念横浜大博覧会の会場となり多くの人で賑わいました。第二次世界大戦末期には日本海軍が利用し、船艇や軍事資材が置かれました。戦後は米軍に接収され、1959年(昭和34年)に全面返還されました。その後再整備を経て、1961年(昭和36年)には氷川丸が岸壁に係留され、公園のシンボルとなりました。1988年(昭和63年)の横浜博覧会に合わせて東側一帯が改めて整備され、駐車場や「世界の広場」などが完成。
2人の散歩には2002年(平成14年)に整備された山下臨港線プロムナードがおすすめ。新港地区から公園まで楽しく歩けます。
カップルで行く
横浜の大さん橋は横浜港の中心にある国際客船ターミナルですが、1894年(明治27年)の完成以来、何度もその姿を変えてきました。当初は長さ約19メートル、高さ457メートルの鉄桟橋で、「メリケン波止場」とも呼ばれました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災で桟橋部が陥没し、上屋が失われましたが、1925年に復旧工事が完了しました。戦後は進駐軍に接収され、「サウスピア」という名前に。1952年の接収解除後は多くの客船が就航し、明治時代を取り戻すかのように大いに賑わいました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際客船ターミナルとしての機能が強化されました。
現在の大さん橋ターミナルは2002年に完成したもので、横浜港の玄関口として国際クルーズ船が多数寄港します。大さん橋屋上の「くじらのせなか」から客船を眺めながら、二人の将来の船旅プランを考えてもいいかもしれませんね。
カップルで行く
「象の鼻」とは、横浜港の東側にある防波堤の先端部分のことです。
1859年の横浜港の開港に合わせて、1858年に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場を弓なりに延長し、現在の象の鼻の原型となりました。横浜港の貿易量が増えると、大さん橋や新港ふ頭などが完成し、港としての主役をそちらに譲ることになりましたが、象の鼻地区は物揚げ場や船だまりとして利用され、東西上屋倉庫などがありました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。
開港150周年の2009年(平成21年)には、当時の写真や工事記録などを参考にし、波止場を明治中期の姿に復旧して「象の鼻パーク」として整備されました。街歩きのひと休みは「象の鼻テラス」で。カフェでたくさんの種類を揃えた紅茶を楽しみながら、アート鑑賞のひとときを2人で過ごしてみてはいかがでしょう。
一人旅で行く
開港百年を記念した『横浜市史』を基礎に設立された横浜開港資料館には、山下町の昔の姿など歴史を感じられる資料がたくさんあります。資料館の展示スペースを一人で巡り歩く時の静けさを全身で感じ取れるのは、一人でここを訪れる特権です。自分の好きなペースで展示物を眺め、資料をゆっくりと読み込むのもいいですね。
資料館の隣の開港広場は「日米和親条約締結の地」の記念碑や、明治時代から残るマンホール、大砲など、開港したころの横浜の空気を感じられる屋根のない博物館です。
横浜散策の初まりに、自由な時間を過ごしてみてはいかがでしょうか。
一人旅で行く
日本の消防隊は横浜から始まりました。明治時代、居留地に住む外国人が中心となり、自分たちの命と財産を守るために「居留地消防隊」が作られました。日本人の消防組織もあり、外国人と協力して災害の発生に備えました。当時の居留地は木造建築が多く、火災の危険が高かったため、居留地消防隊は重要な役割を果たしました。1899年(明治32)年に居留地がなくなると「薩摩町消防組」となり、警察署の指揮下に入ってから、1919年(大正8年)、神奈川県の第二消防署(現在の横浜市中消防署)になりました。
地下貯水槽には現在でも水が溜まっており、その様子は気軽に見学することができます。貯水槽のそばには詳しい歴史の解説も。一人で訪れたときには、その文章をゆっくりと読み込んでみてはいかがでしょう。近くの中消防署山下町消防出張所へも足を伸ばせば、日本の消防の歴史をたどることができます。
一人旅で行く
桜木町駅から元町方面に伸びる約2.5kmの大通りが本町通りです。銀行、官公庁、商店などが集まり、横浜の商業・行政の中枢として発展しました。日本大通りと交差する地点から、横浜外国人居留地となり、外国系の貿易商、銀行、商店などが立ちならぶ、メインストリートでした。
また、1862年には横浜で最初に建設されたキリスト教会堂である横浜天主堂も開かれました。関東大震災や太平洋戦争で被災しましたが、そのたびに復興を遂げています。
内部を見学できる施設も多くあります。外観だけでなく、施設の中を自分のペースで見学できるのが一人旅の特徴ですね。写真に写っている場所が見つかるたびに飛び込んだりしながら、ゆっくり歴史を感じて歩いてみましょう。
一人旅で行く
幕末の横浜開港によって外国人が生活するエリア、外国人居留地が開かれ、関内居留地あるいは山下居留地遺跡と呼ばれました。その後、山手にも居留地が開かれました。山下居留地遺跡には外国系の貿易商、銀行、ホテル、各種商店が建ち並び、まるで異国のような街並みでした。1899年の居留地制度廃止により、山下町となりました。大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し居留地時代の景観は失われました。その後、復興されましたが、第二次世界大戦によって外国人の数は激減し、戦後は進駐軍による接収も受けました。
現在、山下居留地遺跡の遺跡として、煉瓦や切石の基礎や地下貯水槽などが残っているほか、身の回りの道具や建物の内装などが出土しています。わずかながら現存する建物もあります。一人旅だからこその自由な時間の中で、歴史を探して歩いてみましょう。
一人旅で行く
日本の道100選に選ばれた山下公園通りは、かつて「BUND(バンド)-海岸通り」と呼ばれ、外国系の商館やホテルなどが立ち並ぶ、海沿いのプロムナードでした。しかし、1923年の関東大震災で大きな被害を受け、多くの建物が倒壊しました。その後、海岸通りの地先が震災瓦礫の投棄場所に指定され、その上に整備して、山下公園が整備されました。
通りには、横浜港のシンボルであるマリンタワーや、ホテルニューグランドなどの歴史的建造物の数々にくわえ、シルクセンターや産業貿易センター、県民ホールなどの商業・文化施設も。通りの西端には開港広場があり、横浜開港の歴史を伝える開港の碑や下水道遺構などの開港記念塔があります。山下公園には「赤い靴はいてた女の子」像や、在日インド人協会から寄贈されたインド水塔など、海外との豊かな交流を感じさせる記念碑があります。
通りの両側に植えられたイチョウの木が季節に応じて美しい景色を作り出します。横浜ベイブリッジや港を行き交う船の眺めを一人ゆっくりと歩きながら眺めていく休日はいかがでしょうか。
一人旅で行く
ホテルニューグランドは、1927年に開業した横浜で最も歴史のあるホテルです。開港以来、横浜には多くの外国人向けホテルが建設されましたが、1923年の関東大震災によって壊滅的な被害を受けました。横浜の復興にとってホテルの建設は真っ先に取り組むべき課題であり、市と市民が協力して進められました。建築家・渡辺仁の設計で建設された新ホテルの名前は公募され、震災前の横浜のホテルを代表する「グランドホテル」の名称を引き継ぐ、「ホテルニューグランド」と名付けられました。
東洋一との評判を集めたこのホテルは、ヨーロピアンテイストをコンセプトに、横浜港に面した美しい外観と、細部に東洋的な手法を取り入れた内装を備えています。特に、2階にあるロビーは、ホテルの中心となる存在で、昭和初期の色彩豊かなタイルや、当時より使われている横浜家具などがレトロな雰囲気を醸し出しています。
開業以来宿泊してきた国内外の著名人やVIPの中でも最も有名なのは、マッカーサー元帥です。第二次世界大戦後、マッカーサー元帥が専用室として使用した315号室「マッカーサーズスイート」に泊まったら、どんな夢が見られるでしょうか?
一人旅で行く
マリンタワーは、横浜のシンボルとして、1961年(昭和36年)に横浜開港100周年記念事業の一環として建設されたタワーです。高さは106メートルで、当時は日本で最も高い灯台としても使われていました。塔体の側面の十角形が特徴的で、その色は開港130周年となる1989年(平成元年)に下から上へ白から赤く変化するグラデーションになったり、開港150周年の2009年(平成21年)には外側がシルバー、内側がブラウンオリーブに塗り替えられたりと、その姿を変えてきました。2019年からは塗装のし直しとライトアップデザインの一新、設備の更新などのリニューアルが行われ、また新しい顔を見せています。
29階・30階の展望フロアからは横浜港、みなとみらい地区、横浜ベイブリッジなど、横浜の景色を一目で眺めることができ、人気を集めています。美しい景色を見ながら、横浜の歴史を重ね合わせてみてください。
一人旅で行く
山下公園は1923年(大正12年)の関東大震災で発生した瓦礫を埋め立てて造られた公園で、1930年(昭和5年)に開園しました。市内の復興事業として、当初は海岸遊歩道として計画されましたが、その後も移り変わりを繰り返してきました。
1935年(昭和10年)には復興記念横浜大博覧会の会場となり多くの人で賑わいました。第二次世界大戦末期には日本海軍が利用し、船艇や軍事資材が置かれました。戦後は米軍に接収され、1959年(昭和34年)に全面返還されました。その後再整備を経て、1961年(昭和36年)には氷川丸が岸壁に係留され、公園のシンボルとなりました。1988年(昭和63年)の横浜博覧会に合わせて東側一帯が改めて整備され、駐車場や「世界の広場」などが完成。
2002年(平成14年)には、新港地区から公園を直結する山下臨港線プロムナードが整備されました。公園に重なった歴史のページをめくってみれば、様々な発見があるかもしれません。
一人旅で行く
横浜の大さん橋は横浜港の中心にある国際客船ターミナルですが、1894年(明治27年)の完成以来、何度もその姿を変えてきました。当初は長さ約19メートル、高さ457メートルの鉄桟橋で、「メリケン波止場」とも呼ばれました。その後、1923年(大正12年)の関東大震災で桟橋部が陥没し、上屋が失われましたが、1925年に復旧工事が完了しました。戦後は進駐軍に接収され、「サウスピア」という名前に。1952年の接収解除後は多くの客船が就航し、明治時代を取り戻すかのように大いに賑わいました。1964年(昭和39年)の東京オリンピックに合わせて大改修が行われ、国際客船ターミナルとしての機能が強化されました。
現在の大さん橋ターミナルは2002年に完成したもので、横浜港の玄関口として国際クルーズ船が多数寄港します。大さん橋屋上「くじらのせなか」から船を見送っていると、ロマンあふれる船旅への想像が高まります。
一人旅で行く
「象の鼻」とは、横浜港の東側にある防波堤の先端部分のことです。
1859年の横浜港の開港に合わせて、1858年に東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。その東波止場を弓なりに延長し、現在の象の鼻の原型となりました。横浜港の貿易量が増えると、大さん橋や新港ふ頭などが完成し、港としての主役をそちらに譲ることになりましたが、象の鼻地区は物揚げ場や船だまりとして利用され、東西上屋倉庫などがありました。現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。
開港150周年の2009年(平成21年)には、当時の写真や工事記録などを参考にし、波止場を明治中期の姿に復旧して「象の鼻パーク」として整備されました。工事中に発見された、関東大震災で沈下したとみられる防波堤の石積みの一部が復旧に利用されているので、ぜひ探してみてください。