あなたと
巡り合ってほしい
歴史と場所

こい旅横浜

koitabi yokohama

山下町には、歴史がある。

異国文化の入り口となっていた山下町。
あなたを迎え入れるのは、懐かしい歴史と交流の跡。


大事な誰かと山下町を歩きながら、
肌で歴史を感じるひと時を。


街に恋して、あなたに恋して 歴史に出会う、濃い旅を。

こい旅横浜
素敵な山下町巡りをしちゃおう!

さあ、巡っちゃおう。

山下町を知ることができる
10スポット

巡った場所をクリック!
全部押すと何かが起こる…?

スポット巡りスタンプラリー

さて、誰と巡ろう?

  • 友達
  • 家族
  • カップル
  • 一人旅

MISSION 山下町を巡る目的を

不死鳥を見つけてみよう

こい旅横浜山下町で紹介しているスポットのどこかに、このように不死鳥を模した内装が隠れています。
ここに行くと、周りには不死鳥の姿をモチーフにしたものがたくさん。
さらに、名前にフェニックスと付いている空間が見つかるかも…!?
他の不死鳥のモチーフが見つけられたなら、このモチーフと一緒にSNSに投稿しちゃいましょう!
#KOITABIYAMASHITACHOで投稿しよう!

NEXT MISSION → 2024 SUMMER
COMING SOON

見かけたことはありますか?
山下町に潜む小さなヒミツ。

珍しい山下町の一面を見つけたら
シャッターチャンス!

#KOITABIYAMASHITACHOで投稿しちゃおう

山下町の歴史・
異国の面影

江戸時代、現在の山下町は、横浜村という半農半漁の村でした。幕末に横浜が開港されると、来日する諸外国の外交官や商人たちが暮らす「外国人居留地(山下居留地遺跡)」がこの場所に設けられました。現在の日本大通りをはさんで、外国人居留地と日本人街が広がり、この一帯を開港場と呼びました。開港場の中央には波止場(後の大さん橋)が築かれました。1899年(明治32)に外国人居留地制度が廃止されて山下町となりますが、諸外国の人びとが暮らす、コスモポリタンの風情が漂う街でした。
1923年9月1日の関東大震災で、山下町は壊滅的な被害をうけ、居留地時代の景観が失われました。震災後に瓦礫を埋め立て、臨海公園として山下公園が誕生し、人びとの憩いの場所となりました。しかし、戦争の時代となり、1945年5月29日の横浜大空襲で、山下町の半分あまりが再び焦土と化しました。
戦後は米国をはじめとする進駐軍によって山下町の一部と山下公園が接収され、進駐軍の施設や住宅が立ち並びました。1952年に占領の時代が終わると、山下町は再び活気を取り戻します。1970年代に飛行機の時代が到来するまで、山下町と大さん橋は、海外からの人・もの・情報が行き来する日本の玄関でした。この幕末以来の波乱の歴史ゆえ、山下町界隈には今でも異国の面影が漂い、多くの人びとを魅了しているのです。

横浜開港資料館は、横浜開港100年を記念して編纂された「横浜市史」の収集資料を基礎として、昭和56年(1981)6月2日の開港記念日に開館しました。
当館は、安政元年(1854)に江戸幕府とアメリカのペリー提督が日米和親条約を締結した由緒ある場所に建っています。中庭にある「たまくすの木」は、ペリー来航当時からこの地で横浜の歴史を見続けてきた生き証人であり、横浜市の地域史跡に指定されています。また当館の旧館は昭和6年(1931)に建てられたイギリス総領事館(横浜市指定文化財)の建物を活用しています。
日米和親条約に続いて、安政5年(1858)に欧米5ヶ国とのあいだで修好通商条約が締結されると、安政6年(1859)6月、横浜(神奈川)が外国貿易のために開港しました。新しく整備された街には国内外から多くの人びとが移り住み、横浜は日本を代表する国際貿易都市として発展していきます。
横浜開港資料館は、この間の横浜の歴史を明らかにすることを目的に設立され、これまで40年にわたって、幕末から昭和初期にかけての横浜に関する歴史資料を収集・保存し、閲覧に供するとともに、調査研究の成果を展示・出版などのかたちで公開してきました。当館は、資料を通じて横浜のあゆみを次の世代に伝える「近代横浜の記憶装置」としての役割を担っています。